コラム『平和を考える』
『平和を考える』
今年のGWは飛び石連休でまとまった休みが取りにくいとあったが、多くの方は行楽に旅行と、家族や友人と楽しい時間を過ごしたのではないだろうか。私はラジオ番組を担当しているので特にGWというものはなく、担当日は出勤し、担当日以外は通常できない作業を進めた。だが1日だけ母と南部へと行った。行楽ではなく、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある沖縄戦没者墓苑へのお参りだ。母は太平洋戦争末期の沖縄戦における十十空襲で家を焼かれ、戦闘を避け逃げた南部で両親と妹を失くした。
「誰かが両親と妹の骨を拾ってくれたのなら、墓苑に納められているかもしれない」
一縷の希望を持って、梅雨が始まる前……GWに墓参している。
「今年も来れた。あと何回、こうして自分の足で来れるだろうか」
墓苑に向かって手を合わせながら母がこう呟いた。元気とはいえ母ももう80代の後半。健康不安がないとはいえない。
「もうお父さん達の年齢を追い越したんだよ」
その言葉の中には「長く生きてしまった」という意味合いが含まれていて、なんともやるせない気持ちになる。あの沖縄戦を生き残ったことは幸いであると思うが、親姉妹を失くし、戦後は戦争孤児として心細く辛い日々を過ごした母からすると「一緒に死んでおけばよかった」という気持ちになっても仕方がない。戦後80年経ってもなお、私たち家族が埋めてあげることができない深い寂寥があるのだと知る。私も墓苑に手を合わせ、改めて戦争の愚かさ、醜さ、正義のための戦争はないことを痛感し、一市民として平和への思いを新たにした。
さて。3日の憲法記念日に那覇市内で行われた憲法シンポジウムでの、自民党・西田昌司議員の発言で、沖縄は今、怒りに包まれている。西田議員の発言は彼が国会議員になる「何十年か前」に、ひめゆりの塔にお参りに行った際に感じたことだという。ひめゆりの塔の説明を見ていると「日本軍が入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄が解放されたという文脈で書かれている。亡くなった方々は救われない。歴史を書き換えられるとこういうことになる。間違った歴史教育をしている」と指摘した。
それに対し、沖縄県議会の自民・無所属を除く中立と与党の6会派は一斉に反発している。公明党すらも発言の撤回を求める事態だ。自民党県連は「講師個人の見解。県民の反発を招くような表現を避けるべきではなかったか」としている。自民党本部の顔色を伺ったなんともおよび腰のコメントである。県民が怒っているのは、彼が誤った歴史を公の場で展開したこと、そこに憲法改正の正当性があるとした発言であり、県民感情という次元の話ではない。
私は身内にひめゆり学徒がいるわけではないが、縁あってひめゆり平和祈念資料館とは長くお付き合いをしている。その中で元学徒の方々から直接お話を伺ったり、また彼女達の「沖縄戦を風化させない」という強い信念を受け継ぎ、反戦平和への思いを日々研究発信している学芸員の思いを知っているだけに、このニュースに触れた際にははらわたが煮え繰り返った。このような嘘……嘘と断じることが行き過ぎなら「何十年も前のあやふやな、正確性に欠ける記憶と情報」で、ひめゆりだけでなく沖縄戦で死んでいった人たちを貶め、また国家権力を縛る憲法改正の正当性を声高に訴えるのが国会議員であっていいのかと問いたい。それこそ勉強不足だし、恥ずべき行為であると知ってもらいたい。発言者と、発言者を庇う人々にも。
今年は戦後80年という節目の年である。80年前の悍ましくも悲しい出来事は消す事はできないし、その際に負った傷も当事者にとってはまだ生々しくあるであろう。だからこそ今、穏やかに過ごしてもらいたいが……平和憲法が、平和が揺らぎはじめ落ち着かない毎日である。訴え続けても何も変わらない沖縄の現状に疲弊し、もうダメだと諦めそうになる。そんな時、毎日抗議活動を続けている人々や、戦後粘り強く沖縄の自治や人権、基地問題と向き合ってきた人々を思う。彼らが声を上げ続けてきたからこそ、今の沖縄があると忘れてはならない。まだ解決すべき問題はあるけれど。
憤りだけでなく、平和な未来を考えることで締めくくりたい。ひめゆり平和祈念資料館とひめゆり平和研究所では「ひめゆりを考える映像コンテスト」を開催している。この映像コンテストは、ひめゆり平和祈念資料館などの展示から感じたこと、学んだことを映像作品にすることでさらに深め、映像作品を通じてひめゆり学徒や沖縄戦、平和への思いを共有していこうというものである。入賞作品は資料館のYouTubeチャンネルで公開されているので、ぜひご覧いただきたい。私は審査員として関わっているが、毎回応募者の視点に気づくことが沢山ある。そして平和とは簡単に得ることができないもの。一人ではなし得ないことだと改めて知る。だからこそ、このような取り組みを地道に続けてゆく必要があるのだ。シュプレヒコールだけが平和を作るのではない。平和は誰かが作ってくれる、与えてくれるものでもない。一人一人が平和とは何か、安心して暮らせる社会とは何かを考え続け、日常で最善を選択し続けることでしか作れないのだ。
第7回ひめゆりを考える映像コンテスト
https://www.himeyuri.or.jp/news/2802/
ひめゆり平和祈念資料館YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/@himeyuripeacemuseum763
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